ローマ時代の建築物
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ピラミデ
街の中に存在するピラミッド
この、ローマの町中に突如と出現するピラミッドは紀元前12年にガイウス・ケスティウスによって建設された。 そして後に、271年から275年の間に建設された、ローマを囲むアウレリアヌスの市壁に組みこまれ、現在のような形となった。
ティヴォリ
ローマ郊外にある自然豊かな保養地
ローマの東、約30キロに位置する人口5万6000人の町。紀元前1215年にその起源をさかのぼる。 温暖で、緑が美しい風光明媚な土地は、皇帝や貴族たちの保養地として好まれてきた。 そうした背景から、上流階級の別荘(ヴィラ)の建築物が残っており、中でも、ヴィッラ・アドリアーナ、ヴィッラ・デステという二つの別荘はユネスコ世界遺産として登録されている。
オスティア・アンティカ
古代ローマの物流拠点の都市
オスティア・アンティカは、古代ローマ時代のティベリ川の河口に位置するかつえ存在した都市であり、現在は遺跡として有名な観光名所である。 ローマより30キロメートル南に位置する。建設当初は河口に位置する都市であったが、河の堆積作用により現在は河口より2キロメートルほど内陸にある。 名前「オスティア(Ostia)」の「os」というのは河口という意味で「tia」とい…
フォーリ・インペリアーリ
歴代皇帝を偲ぶフォーリ・インペリアーリ
「諸侯の造った公共広場」の意味をもつ「フォーリ・インペリアーリ」。 人口の増加により、従来のフォロ・ロマーノは手狭になったため、紀元前54年に当時の皇帝カエサルが私財を投じて、列柱で囲まれた「カエサルのフォロ」を造ったのが始まりである。 続いて、アウグストゥスをはじめとする歴代の皇帝がフォロを造営し、「フォーリ・インペリアーリ」ができあがった。
アラ・パチス
皇帝の地位を保った平和と皇帝の礼賛のシンボル
テヴェレ川に架かるカヴール橋東詰め近くには、「アウグストゥスの平和の祭壇」を意味するアラ・パチスが公開されている。 隣り合うのはエジプトのアレクサンドリアにあったアレクサンダー大王の墓を模して、紀元29年に造られたアウグストゥス帝の廟。
アッピア旧街道
最も有名なローマ街道のひとつ
ローマ帝国時代に「全ての道はローマに通ず」の言葉に基づき築かれた街道の中で現存する最も有名な石畳舗道のひとつ。 ローマから南東に一直線に伸びる。「街道の女王」の異名を持つ。 1784年に旧街に平行して新しいアッピア街道が平行して作られたため、以来アッピア旧街道と呼ばれるようになった。
ディオクレティアヌスの浴場跡
ローマ市民が愛したディオクレティアヌスの浴場跡に往時を思い馳せる
テルミニ駅正面玄関の先にはディオクレティアヌスの浴場跡がある。この浴場は、298~309年にディオクレティアヌス帝の命によって造られ、内部には各種浴槽と集会堂(バジリカ)や運動室を備え、庭園もあり、ローマ市民の憩いの場となり、一度に3000人が利用することができた。 その後、浴場は中世以降、教会や修道院に転用された。
マルケッルス劇場
コロッセオより古い古代の劇場
共和政ローマ末期からローマ帝国初期にかけて建設された劇場。 マルッチェロ劇場とも呼ばれる。一見コロッセオのようなその外観は、実際コロッセオよりも前に建設されコロッセオ建築の手本となったとも言われている。 カエサルが着工したが建設開始前に暗殺され、皇帝アウグストゥスが引き継ぎ紀元前13年に完成させた。
ネクロポリ(エトルリアの街)
エトルリア人の葬祭芸術「ネクロポリ(死者の街)」
古代ローマ以前の 前7世紀から前2世紀にかけて、イタリア中央部に存在した先住民エトルリア人は高度な文明を持ち、街は交易で栄えた。 独自のエトルリア文化を開花させ、 葬祭芸術「ネクロポリ(死者の街)」と呼ばれる大規模墳墓の遺跡を築いた。
アウグストゥス帝の廟
アレクサンダー大王の墓をまねたお墓
テヴェレ川に架かるカヴール橋東詰め近くには、ほぼ正円形をした、アウグストゥス帝の廟がある。 エジプトのアレクサンドリアにあったアレクサンダー大王の墓を模して、紀元29年に造られた。 当初は、葬祭殿の下に墓があり、入口には2本のオベリスクが立っていたが、時が流れるうちにオベリスクは持ち去られ、神殿は壊れ、周囲には民家と路地が密集した。